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福岡高等裁判所 昭和49年(う)60号 判決

被告人 亀井俊助

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、福岡高等検察庁検察官検事亀井義郎提出の大分地方検察庁検察官検事樺島明作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人吉田孝実、同岡村正淳、同柴田圭一連名作成の答弁書ならびに追加答弁書に記載されたとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

控訴趣意第一点法令の解釈適用の誤り、ひいて事実誤認の主張について。

所論は原判決は、被告人が浜松昭二朗候補に当選を得しめる目的をもつて、自己の担任する大分市立城東中学校一年二組の生徒の父兄で選挙人である栗嶋哲雄ほか二八名に対し起訴状記載のような添え書をした同候補者の選挙運動用はがき一五枚を郵送して頒布した事実を認めながら、被告人の右所為は、公職選挙法一三七条所定の「教育者が生徒らに対する教育上の地位を利用してした選挙運動」に該当しないとして、無罪の言い渡しをした。しかしながら、公選挙法一三七条所定の教育者が生徒らに対する教育上の地位を利用してする選挙運動の罪とは、教育者が教育者たる地位に伴う影響力を直接又は間接に利用して選挙運動を行なうことによつて直ちに成立するものであつて、別に右の影響力を不当に利用したり、あるいは右の影響力を及ぼすような態様の選挙運動であることなどの要件は必要でない。本件の場合、被告人は、公訴事実記載のような添え書のある法定の選挙運動用はがき一五枚を自己の担任する生徒の父兄二九名に郵送することにより、間接的にではあるが、影響力は十分生じており、本来自由であるべき右父兄らの選挙権行使の自由な意思に影響力を与えたことは明らかであるのに、原判決が同罪の成立するためには、教育者の選挙人に対する働きかけが、その地位に伴う影響力を不当に利用し、それにより選挙人の選挙権行使についての自由な意思が多少とも阻害されるおそれがある態様のものであることを要すると厳格に解釈したうえ、本件につき公訴事実記載程度の添え書のあるはがきを郵送頒布しても、被頒布者の選挙権行使についての自由な意思が阻害されるに至つたとは到底考えられないとしたのは、同条の解釈適用を誤まり、ひいて事実誤認をあえてしたもので、原判決は破棄を免れない、というのである。

よつて案ずるに、国民を代表する議員を選出する国民の権利(憲法一五条)は、国民が国政に参与するかけがえのない手段として最大限に尊重されなければならず、また議員の候補者もしくはこれを支持するものが、その候補者に当選を得しめる目的をもつて、直接又は間接に必要かつ有利な勧誘その他の選挙運動をなすことは、憲法二一条の保障する表現の自由の一つとして本来自由であるべきであるから、選挙の自由と公正を保持し、不当な競争を防止するため、ある程度の制約を受けざるを得ないとしても、その制約の程度は、選挙運動を行う国民の権利の重要性を考えれば、必要最少限度の合理的なものでなければならない。したがつて、教育者も国民の一人として、一般国民と同様に選挙活動の自由を享有するのは当然のことであるが、他方公職選挙法が同法一三七条において通常教育者の学校の児童、生徒及び学生(以下単に生徒という)とその父兄に対する精神的感化力ないし影響力が大であることにかんがみ、その選挙運動に対し、規制を加えることが、選挙の自由と公正を保障する所以であるとし、しかも同条の教育者の中に、国家公務員又は地方公務員たる教育者のほかに、私立学校の教育者をも含ましめている趣旨を彼是勧案するならば、公務員なるが故にその政治活動につき広汎かつ厳格な制限の加えられる公務員の場合と異なり、教育者のなす選挙運動については、教育者の地位に伴う前記のような影響力を利用したと評価し得る場合に限りこれを制限すべきである。したがつて、教育者がその教育上の地位に伴う影響力を利用せずに、一個人として一般人と同様の選挙運動をすることは何ら制限されるものでなく、たとえ教育者が単にその教育者としての社会的信頼自体を利用した場合でも問題の余地はない。

かくして公職選挙法一三七条をみるならば、同条にいう「教育者が、学校の児童、生徒及び学生に対する教育上の地位を利用して選挙運動する」とは、教育者が教育者たる地位に伴う影響力を利用して選挙運動をすることをいうのであつて、教育者たる地位を利用して生徒をして直接選挙運動を行わせる場合に限らず、それらの者を通じて間接的にその父兄に働きかける場合は勿論、その子弟に対する教育者としての地位を利用して直接又は間接にその父兄に働きかける場合も含むと解すべきである。しかしながら、いかなる場合に教育者が教育上の地位に伴う影響力を利用して選挙運動をしたといい得るかについては、教育者の意思、教育者と相手方との関係、その行為の態様、相手方が教育者の選挙運動により影響を受けるような状態にあつたかどうか等個々の事例に即して具体的に判断しなければならない。ことに、教育者がその担任する生徒の父兄に働きかける場合は、単にその相手が担任する生徒の父兄という関係にあるというだけでは足りず、父兄に対しその生徒のことで何らかの利益又は不利益な影響を及ぼし得る地位にあるのを幸いに、その影響力を利用(原判決のように不当に利用することは必要でない)して、選挙の公正と自由を阻害するおそれのある選挙運動をするものでなければならないが、その結果現実に父兄に影響を及ぼしたことまでは必要でないと解する。この点をさらに詳述すると、教育者が教育上の活動としてその担任する生徒の父兄会の席上又は家庭訪問の機会に、父兄に対し投票を依頼する場合、あるいはその身分を知つている父兄に対し個々に面接して投票を依頼する場合等は、父兄に対する働きかけが直接的であるだけに、父兄もその申出を無下に断わることが困難になることが多く、明らかに教育者の地位に伴う影響力を利用した選挙運動ということができるが、教育者が封書ないしはがきを用いて父兄に対し選挙運動をする場合は、直接相手方と面談したり電話で話す場合と異なり、その方法が間接的であるだけに相手の反応が全くわからず、相手方の中には反対派の候補者を支持するもののいる可能性があり、また相手方もそのため心理的圧迫を受けることが少ないものと考えられるので、一概に決められず慎重に検討する必要がある。ことに印刷された法定の選挙運動用はがきの場合、選挙期間中は他にも同種のはがきが少なからず郵送されてくるので、かりにその内容に目を通したとしても、その内容が一般的抽象的なものであれば、誰に投票するかで迷うことは少いということができる。さらに、本件のような添え書のある選挙運動用はがきを教育者において一般選挙人に郵送頒布しても何ら教育上の地位利用の問題は起こらず、また右添え書に教育者の氏名の署名がなければ、かりに自己の担任する生徒の父兄に郵送しても右のような問題の起こるおそれはないから、単に担任教師の署名があるというだけでこれを受け取つた父兄において、右添え書(その内容にもよるが)が自己の担任教師の書いたものであると察知し、そのため自己の投票すべき候補者の選択につき心理的に影響を受けるおそれがあるとは軽々に断定できない。

以上の観点に立つて本件を検討するに、被告人の原審ならびに当審における各供述、原審証人永富健二の証言、押収してある選挙運動用はがき一五枚(当庁昭和四九年押第二八号の1ないし15)、大分市選挙管理委員会委員長作成の捜査関係事項照会回答書によれば、被告人は、昭和四六年六月二七日施行の参議院議員選挙当時、大分市立城東中学校教諭で、同校一年二組を担当する教育者であつたが、右選挙に際し大分県地方区から日本共産党公認として立候補した浜松昭二朗とは、教師を中心とした民主的な教育研究の会である筋湯会で知り合い、同人が私立高校の教師であつたことから個人的にも親しく交際し、また共産党の教育政策に賛同する点が多かつたので、同候補者を支持しその当選を期待していたところ、投票日の前に被告人方において右会の会員である永富健二と同候補者の応援につき種々話し合つた結果、教育者がその地位を利用して選挙運動をすることは公職選挙法で禁止されているけれども、同候補の主義、政策を披瀝して選挙人に投票を依頼する旨の本文と推せん者四名の職業氏名を活字で印刷した同候補者の法定の選挙運動用はがき末尾の余白に簡単な推せん文を書き添え、これを知人や父兄等に郵送頒布することぐらいは許されるだろうということになり、右永富と手分けして被告人は右はがき一〇〇枚のうち三〇枚ないし五〇枚の末尾に「しんけんに子どもや教育のことを考えてくれるほんとうに信頼できる人です、よろしく」という旨の推せん文を書き添え、住所録や児童名簿によつてそれぞれ宛名を書き郵送頒布したこと、右はがきのうち少くとも一五枚は自己の担任する生徒の父兄に宛てたものであつたが、被告人は、かねて選挙運動の限界の事例として、選挙運動用はがきに推せん文を書くような場合、教師の名前をフルネームで書くのはまずいということを耳にしていたので、教育上の地位を利用したと疑われることを避けたい気持から、推せん者の表示として右はがきについては被告人の姓である「亀井」のみを記入したが、その余の親戚、知人、成人した昔の教え子らに宛てたはがきには亀井俊助とフルネームを用いて彼是峻別していたことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。このように、被告人は、浜松候補こそ真剣に子供や教育のことを考えてくれる人で同候補者ならその専門とする教育の分野で活躍してくれると考え、知人や父兄に対し同候補者を推せんして、同候補者への投票を依頼したものであつて、それ自体は別に不自然なことでなく、とりわけ父兄に宛てた分に対しては教育者たる地位に由来する不測の疑惑を避けるために特段の配慮をしたことが窺知できる。

そこで一方相手方たる父兄の本件はがきの受取り方についてみるに原審証人栗嶋キクエ、同宇都宮郁雄(以上第五回公判廷)、同菅原三千代、同有馬房子、同宣田信子(以上第六回公判廷)、同三浦トモ、同阿部美代子、同近藤美佐子、同森本セツ(以上第七回公判廷)、同末松春吉、同佐藤ツヤ子、同竹内アサカ、同平野克己(以上第八回公判廷)、同大塚勝男(第九回公判廷)の各証言および西口和子の検察官に対する供述調書(六〇一丁以下)によれば、栗嶋キクヱほか一四名は、いずれも本件当時被告人が担任していた城東中学校一年二組の生徒栗嶋勲ほか一四名の父兄であるが、投票日前の昭和四六年六月二〇日前後頃、本件はがきが同人ら方に郵送されていること、右一五名のうち栗嶋、宇都宮、阿部、森本、佐藤、末松、平野、西口の八名は、警察官が捜査にきてはがきのことを聞かれるまで、本件はがき自体がきていることすら気付かなかつたり、あるいははがきのきたことは知つていたが被告人の書いた添え書であることに気付かなかつたこと、その余の七名の大半は、添え書にある亀井が被告人を示すものであることに一応は気付いたが、そのうち宣田は共産党不支持のため、また大塚は所属組合関係の候補者以外に関心がなかつたため、本件はがきの添え書を無視したこと、残りの五名は、右添え書を読んでも普通の選挙運動用はがきを受け取つたときと同様に別に何とも思わず、強いてその気持をいえば、人にものを頼まれてないがしろにできかねるときのような気の重さを味わつた程度であつたり、あるいは先生の添え書があるので特に最後まで目を通したが、被告人はこの候補者を支持しているのだと思つた程度であったことが明らかである。(三浦および西口を除く栗嶋ほか一二名の検察官に対する各供述調書中には右認定に反する部分もあるが、前記各証拠と対比したやすく措信できない。なおその詳細については控訴趣意第二点において説明する。)

してみると、被告人には教育者たる地位を利用して選挙運動をしようという意思はなく、行為の態様も知人その他一般の選挙人に対し本件はがきを郵送するに際し、そのうち一五枚が自己の担任する生徒の父兄宛のものであつたに過ぎず、ことさらに父兄を主として右はがきを出したものでなく、しかも右はがきに記入された添え書は、その余の知人宛のものと同様候補者の人柄と熱意に触れた簡単なありふれた推せん文であつて、その内容自体特に教育上の活動としてなされたものとも思われず、また、右添え書の最後に自己の姓である「亀井」の署名をしただけで、自己が右父兄の子弟の担任教師であることをうかがわせるような肩書等は一切記入していなかつたのであるから、単なる印刷文だけのものより差出人の自筆の添え書のあるほうが親しみを深めるという一般論を考慮に容れてもこの程度の添え書では、これを受け取つた父兄に、一般の選挙運動用はがきを受け取つた場合と異なり、被告人がその子弟の担任教師であることを考慮して、その選挙権行使について迷いを生ぜしめ、あるいは被告人の推せんする候補者に投票しようという気持を起させるおそれのあるものとは認め難く、現に本件はがきを受け取つた父兄の大半も、前記のように被告人の添え書を読んでも別に気にとめておらず、残り父兄の如きは被告人の添え書のあることすら気付いていなかつた程であるから、職業倫理ないしは社会一般の感覚からみて是認できる行為であるかどうかは別として、法律上は、本件程度の添え書のある選挙運動用はがきの郵送頒布は、未だ教育者の地位に伴う影響力を利用して選挙運動をしたものであると評価するのは困難である。

以上の次第で、被告人の所為が公職選挙法一三七条の教育者の地位を利用した選挙運動に該当しないとした原判決の判断は結局相当であり、記録を精査しても、原判決に所論のような法令の解釈適用の誤り、ひいて事実誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

控訴趣意第二点訴訟手続の法令違反ひいて事実誤認の主張について。

所論は、被頒布者である栗嶋キクヱほか一二名(前記一五名のうち三浦トモと西口和子を除く。以下栗嶋ら一三名という。)の原審における各証言は、同女らの検察官に対する各供述調書の供述と相反するか、若しくはくい違つていたので、原審検察官が同女ら一三名の検察官に対する各供述調書を刑事訴訟法三二一条一項二号の書面として取調べを請求したところ、原裁判所は、右各供述調書には特に信用すべき状況がないとしてその取調請求を全部却下した。しかしながら、右各供述調書は、いずれも本件選挙の行なわれた直後の記憶の鮮明な時期に録取された信用性の高いものであり、内容的にもその供述は理路整然として矛盾のない真実性の高いものであるのに、原判決は、右各供述調書の価値判断を誤つてこれを採用せず、右各供述調書の供述を無視して本件はがきの郵送頒布により被頒布者の選挙権行使についての自由意思が阻害されるとは考えられないとしたものであつて、明らかに訴訟手続に関する法令に違反し、その結果事実を誤認したものである、というのである。

そこで原審記録を調査して検討するに、原審第一〇回公判期日(六一六丁、六三七丁ないし六四一丁)に検察官より刑事訴訟法三二一条一項二号の書面として、栗嶋ら一三名の検察官に対する各供述調書の取調請求がなされたところ、原裁判所は、第一二回公判期日(六五六丁)において右各供述調書には特に信用すべき状況がないとして右請求を却下する旨の決定をしたことが記録上明らかである。

ところで、原審記録によれば、原審第五回公判期日(昭和四七年一一月七日)ないし第九回公判期日(同四八年四月一七日)に右栗嶋キクヱら一三名が証人として尋問されているが、当時すでに参議院議員選挙の行われた昭和四六年六月から約一年五月ないし一年一〇月の年月が経過していたためか、本件はがきが何時郵送されてきたか覚えておらず、またはがきを受け取つた時の状況やその気持についてあいまいな、あるいは、殆んどの者が本件はがきの添え書を読んでも別に何とも思わなかつた旨証言しているのに対し、同人らの検察官に対する各供述調書は、昭和四六年七月初旬から中旬にかけて記憶の新鮮と思われる時期に作成されたもので、本件はがきを受け取つた日時、その時の状況とくに右はがきの添え書を読んだ際感じたこと、その感じ方に強弱の差はあつても殆んどのものが父兄は先生に対し弱い立場にあるので、先生に頼まれると気になる旨公判廷の証言と異なる供述をしており、その内容は一応筋の通つているように看取できる。してみると、右証言と右供述が相反するか若しくは実質的に異なつていることは明らかであり、その供述に際して任意性を疑わせるような事情も見当らないので、右栗嶋ら一三名の検察官に対する各供述調書は、刑事訴訟法三二一条一項二号本文の要件を具備し、かつ、原審公判期日における証言よりも信用すべき特別の情況があつたということができ、右各供述調書は同号書面としての証拠能力に欠けるところはない。したがつて、原裁判所が右栗嶋ら一三名の検察官に対する各供述調書につき特信性がないとして検察官の証拠調請求を却下したのは、訴訟手続の法令に違反したものというべきである。しかしながら、刑事訴訟法三二一条一項二号の書面の証拠能力と証拠価値とは必ずしも同一に論ずべきものでない。そこで、栗嶋ら一三名の検察官に対する各供述調書を同人らの原審ならびに当審における各証言と対比して仔細に検討すると、次のことが認められる。

(1)  栗嶋キクヱ、宇都宮郁雄、末松春吉、阿部美代子、森本セツ、佐藤ツヤ子、平野克己の七名は、本件捜査のため訪れた警察官から本件はがきの提出を求められたりして、初めて本件はがきが郵送されたことを知つてその添え書を読み、あるいは当初見過していた右添え書が被告人の書いたものであることに気付いたのであるから、後日検察官の取調に際し、「同人らが父兄は先生に対し弱い立場にあるので、先生の頼みは断り難い」等と述べたとしても、右供述は結局本件発覚後に本件はがきの添え書を読んだ場合の同人らの感想ないし意見を述べたに過ぎないものといい得るので、右七名の供述調書は実質的に信用性のないものである。

(2)  菅原三千代は、検察官に対する供述調書において「はがきを見てすぐには先生と思わなかつた。まさか先生が共産党の候補者の運動をすることもないだろうと思い、わからないまま状差しに入れておいたが、もし先生が出したとすれば父兄としては迷惑に思う」と述べ、さらに原審において「はがきをもらつても全然関心はなかつたので何も感じなかつたし、何とも思わなかつた(三七九丁)」旨証言しているところからして、右供述調書における同人の供述は単なる一般論であつて、証拠として採用するに値いしないものということができる。

(3)  有馬房子は、検察官に対する供述調書において「亀井という姓の知り合いは純一の受持の先生以外にないので、亀井先生に相違ないと思つた。先生の依頼どおり投票しないと何か子供にとつて悪いことが起るような感じを僅かながらも抱き、何か押しつけられるような不愉快さを感じた」旨供述しているが、これを原審ならびに当審における同人の「本件はがきの添え書を見ても別にどうという感情はわかなかつた。人に頼まれて簡単に『はい』といえない場合の気の重さ程度で、相手が先生だからというためではない(三九三、三九四丁)」旨の証言に対比してみると、同人の右供述調書も証拠価値の乏しいものであることは明らかである。

(4)  宣田信子および大塚勝男は、共産党支持でなく、同党公認の浜松候補に投票する気持は全然なかつたのであるから、検察官に対する供述調書において、宣田が「子供の受持の先生の頼みを無視していいだろうかという感じを僅かながら持つた」と述べ、また大塚が「先生が受持の父兄に投票するよう働きかけるのは、その地位を利用したもので選挙違反になるのではないかと思つた。父兄は先生の頼みを断れないのが普通だ」等と述べたとしても、これは、右大塚が原審において証言している如く「右供述は検察官の説明に相づちを打ち、一般概念的に申し上げただけで、特別自分の気持を述べたわけではない(五九三ないし五九四丁)」といい得るので、右両名の各供述調書はいずれも信用性の乏しいものである。

(5)  近藤美佐子は、検察官に対する供述調書において「亀井先生以外に知り合いがないので、先生の書いたものとわかつたが、浜松候補を支持する気持がなかつたので、それ程気にしなかつた」と述べ、原審では「はがきは翌日見たが、添え書には最初気がつかなかつた。(四七八丁裏、四七九丁)選挙用のはがきは沢山来るので、先生のはがきをもらつても別に考えなかつた。(四八一丁)」旨証言しているところからして、右供述調書中の「子供の広が可愛いので云々」の供述部分は、一般論を述べたものと考える余地があり、そのまま措信することはできない。

(6)  竹内アサカの検察官に対する供述調書には「添え書を見て先生とわかつたが、親としては受持の先生の頼みは断り難くて……もし後日亀井先生からこのはがきを見たかなどと尋ねられたりすれば……娘の立場を考えて受け答えをしなければならないという程度のひつかかりのようなものがあつた」旨の供述があるが、同人の原審における証言によれば、同人が本件はがきを受取つたのは田植で一番忙しい時だつたので、さつと目を通しただけで別に何とも考えず放つておいた。(五五一丁以下)」というのであるから、右供述調書の供述は一般論を述べたものというべくたやすく措信できない。

以上の次第で、栗嶋ら一三名の検察官に対する各供述調書はいずれも証明力の乏しいものであり、これを証拠として判断の資料に供することは相当でないので、右各供述調書に特信性がないとしてその取調請求を却下した原裁判所の措置は、訴訟手続の法令違反ではあるが、ために事実誤認の結果を招来するものとはいえず、右違反は結局原判決に影響を及ぼすことの明らかな瑕疵とはならないし、記録を精査しても本件はがきの郵送頒布により被頒布者らが影響されることはなかつた旨判示した原判決に所論のような事実の誤認は認められない。論旨も理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条に則り本件控訴を棄却する(当審の訴訟費用については同法一八一条三項に従う)こととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 渕上寿 徳松巌 松本光雄)

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